千心美生
目の前の損得に惑わされずに、人間として「良いこと」をする。
子供の頃の話です。庭でおじいちゃんが「タバコを持ってこい」と言いました。タバコを持っていったら怒られました。「タバコと言われたら灰皿とマッチを一緒に持ってくるもんだ」びっくりです。そういえばいいじゃないかと心の中で毒づきました。 おばあちゃんはよく言ってました。「あんたは不細工なんだから愛想よくしないと、嫁に行ってから苦労するよ」
私は子供時代を通して自分のことを不器量で気が利かない取り柄のない人間だと思っていました。学校を卒業して、明日から社会人になるという前の晩、こんな自分が無事世の中で務まるのだろうかと緊張して眠れなかったことを思い出します。 最初の給料をもらった時、電話とりしかしてないのに貰っていいのだろうかと気おくれしました。一部をおばあちゃんに現金書留で送金しました。お盆休みに帰省したら手つかずで仏壇に供えてありました。「あの極道娘が・・」と涙ぐんでいたと近所の人から聞きました。
私はずいぶんたってから自己評価と社会の評価が違っていることに気がつきました。 愛嬌のある気が利くコだという評価です。あれから何十年もたって辛かった躾がこれほどまでに大きな恩恵を与えてくれたことにとても感謝しています。 祖父も祖母も無愛想で気が利かない孫娘の前途をとても心配していたのだと思います。私が何ものになるのかならないのかわからないまま二人とも鬼籍にはいり、「孝行したいときに親はなし」を地でいってしまったことを長く悔やんでいました。このごろようやくそういうものなんだとわかるようになりました。
昔話で、ある殿様がまだ若いころのこと。ある日寺社に立ち寄ったところ、年寄りのお坊さんが境内に日除けのために苗木を植えているのを見て、 「その木が大きくなるころにはあなたはもういないだろう」と言ったところ、お坊さんは自分のためにやっているのではないのだと答えたということです。 それを聞いた若い殿様は深く感じ入ってのちに名君と呼ばれるような立派な殿様になったというような話だったと記憶しています。そのお坊さんが育てたものは木だけでないこと。殿様だけでもなく、そういったお坊さんの心が今日を育てたということではないでしょうか。
良いことをすると人は褒めてもらいたい気持ちが湧きます。良いことをしたのに褒めてもらえないと損したような気がします。それはもう目の前の損得に振り回されているのです。損得ではなく、「良いこと」だからする。誰も見ていなくても、誰も知らなくても、「良いこと」だからする。 人間として、良いことをするという充足感、そしていつかその成果が現れるという確信。自分や相手を人生の長さとか歴史の一部として俯瞰する視点は、目の前の安楽より大切なものを教えてくれます。そして、それは人間にだけ与えられた特別な才能なのです。
1人でこの現実世界を生き抜いているのではなく、 何も語らないたくさんの先人のおかげで生かされていることに気づくとき、孤独は消え去り、 大きな愛を感じて生きられる幸福を知るのです。
代表取締役 千堂 純子